一万円札を一枚、銀行の窓口に差し出す。金の塊と引き換えてほしいと言っても、そういう取引は行われない。今の通貨では当たり前の光景である。だが、この当たり前は制度の設計であって、はじめからそうだったわけではない。

通貨を一定の比率で金に交換できるようにする。それが金本位制の基本的な仕組みだった。日本銀行金融研究所の説明では、そこから管理通貨制度への移行とは、通貨価値を金から切り離し、中央銀行の金融政策を通じて通貨を管理する仕組みへの転換を指す。では、その切り離しはいつ起きたのか。金本位制が現在どうなっているのかを知るには、終わりの日付を一つ探すより、一つの数字の行方を追うほうが早い。

1トロイオンス35ドル、かつての約束

第二次大戦後の国際通貨体制で、各国の通貨はドルに固定され、そのドルは金1トロイオンス=35ドルという公定価格で金に結びつけられた。連邦準備制度の歴史解説は、この二段構えの仕組みをそう説明している。金と通貨のあいだに、公表された交換比率が一つ置かれていたことになる。

この35ドルという数字は、金本位制の終わりを一つの日付に押し込められない理由も示している。国内通貨の金兌換を止めること、ドルの金兌換を止めること、主要通貨が変動相場に移ること、国際協定の条文が変わること。四つは別の出来事であり、起きた年も違う。第一次大戦後には修正版の金本位制がいったん再建され、大恐慌期の緊張のなかで1930年代に崩壊した。そのあとに、金とドルをつなぐ戦後の体制が続いた。

1925年の法律と、1931年9月21日の議会

英国では1931年9月21日、下院が金本位法の修正法案を審議した。停止の対象になったのは、1925年金本位法が定めるイングランド銀行の義務、すなわち一定の価格で金地金を売ることである。蔵相は議会で、金と外貨の流出、海外信用の枯渇、為替への圧力を挙げ、通貨の金兌換を停止する必要を述べた(英国下院議事録、1931年9月21日)。

固定価格で金を売り続ける義務。平時には制度の土台であり、流出が止まらない局面では守りきれない約束に変わる。その時、何が起きていたのか。議事録に残るのは相場の見通しではなく、手元の金と信用がどれだけ減ったかという話である。

1930年の旧平価復帰と、1931年12月の再禁止

日本は1930年に金本位制へ復帰した。日本銀行の説明では、当時の実態に比べて円高な旧平価での復帰であり、緊縮的な政策とあわせてデフレ不況を深めた。世界恐慌の影響も重なる。そして英国が1931年9月に金本位制を停止すると円売り圧力が強まり、同年12月、高橋是清が金輸出を再禁止する。日本は事実上、金本位制から離れた。

ここで円の数字も動く。平価は100円あたり49.845ドル。日本銀行金融研究所の分析によれば、1932年11月には一時、100円あたり20ドルを下回った。固定されていた比率が外れたあと、数字はこう動くという記録である。

1931年末の停止と、1942年の日本銀行法

日本では1931年末以降、日本銀行券の金貨兌換が停止された。ただし、銀行券を兌換しないことが制度の上で明確になるのは、1942年の日本銀行法である。実際の停止と、法のかたちが整うまでには十年あまりの時間差があった。金本位制の根拠法も、廃止ではなく運用停止という形をとり、その後は再開されていない。

制度はある日の宣言で丸ごと入れ替わるのではなく、停止と追認の順で積み上がる。実際に兌換が止まった年と、それが法律の条文として整理された年は別の日付であり、重ねて書くと一つの出来事のように見えてしまう。1882年の開業から1899年の紙幣統一までの日本銀行の歴史も、開業の日付と制度が整う日付を分けて読む回である。

1971年8月15日、35ドルの停止

戦後の体制は、古典的な金本位制そのものではない。各国通貨をドルに結びつけ、そのドルを金に固定する仕組みである。やがて海外に出たドルが米国の金保有を上回り、金兌換を維持できるのかという不安が膨らむ。連邦準備制度の歴史解説は、金の取り付けへの懸念を、体制を揺さぶった背景として挙げている。

夕方の居間に置かれた古いテレビと、誰も座っていない椅子

1971年8月15日、ニクソン大統領は国民向けの演説で、財務長官にドルと金その他の準備資産との交換を一時停止するよう指示したと発表した。演説が掲げた目的は、国際投機からドルを守ること、雇用、物価上昇への対応である(1971年8月15日の演説記録)。一時停止、という言葉が使われている。35ドルで金と交換するという約束は、この日を境に機能しなくなった。

1973年3月から1978年4月1日まで

では、1971年8月で為替の世界がすべて変動相場になったのか。そうではない。ブレトン・ウッズの固定為替相場制が実質的に終わるのは1973年3月、主要通貨が変動相場に移ったときである。さらに1976年のジャマイカ合意を経て、IMF協定の第二次改正が1978年4月1日に発効し、変動相場制を含む選択肢が法的に整えられた。IMFの制度史は、この改正によって金の貨幣的役割が廃止され、加盟国が選ぶ為替相場制度が認められたと記している。

条文の上では、加盟国は一定の義務に従って為替の取決めを選べる。ただし、金を通貨の対外価値の基準として維持することはできない。IMFは加盟国の為替政策を監視する。1971年から1978年までの七年ほどは、停止が先に起き、条文が後から追いついた期間だった。変動相場制に移ったあとの為替をめぐる動きは、1985年9月22日のプラザ合意の回でたどった。

現在、数字の置かれていない場所

現在の国際通貨制度を、すべての通貨が同じ形で運営される単一の「管理通貨制度」と呼ぶのは正確ではない。協定上、各国は義務の範囲内で自国の為替取決めを選んでいる。そのうえで日本の通貨については、通貨価値を金から切り離し、日本銀行が金融政策を通じて管理する制度として説明されている。

1トロイオンス35ドル、100円あたり49.845ドル。かつて通貨には、公表された交換比率という数字があった。今、その位置に数字はなく、政策と監視の仕組みが置かれている。これを進歩と読むか、別の種類の約束への置き換えと読むか。並べられるのは日付と条文までで、どちらを選ぶかはここで決める話ではない。

ニクソン大統領の演説記録には、停止ではなく「一時停止」という言葉が残っている。あの夜から五十年以上がたった今、一万円札を手に取っても、金何グラムとの交換比率を示す文字はどこにも見当たらない。表には肖像、裏には建物。かつて数字が置かれていた場所に、今はもう何も書かれていない。