取材ノートを収めた段ボールが三箱ある。金本位制という制度が廃止された年を一つ挙げてほしいと言われたら、答えに迷う。公的な年表をたどると、1917年、1931年、1971年という、国ごとに異なる区切りが並ぶからだ。
答えに迷う理由は単純だ。制度の終わりは国ごとに別の年に訪れ、同じ国の中でも停止と復帰を繰り返している。1917年、1931年、1971年。この三つの年を並べたとき、「廃止」という一語が何を指していたのかが、ようやく分かれて見えてくる。
当時の問い、「兌換を守れるか」
金本位制とは、本位貨幣の価値を金の一定量に固定する制度である。通貨単位は金の量で示され、中央銀行は法定平価で銀行券と金との兌換を無制限に保証する。金の輸出入は自由で、正貨準備は通貨の発行量とつながっている。この条件がそろうことで為替は固定相場となり、金が国境を越えて動くことによって国際収支の不均衡が自動的に調整される。
裏返せば、条件のどれか一つが欠けた時点で、制度は形を保てない。だから当時の政府と中央銀行に向けられていた問いは、「金本位制は正しいか」ではなく、「兌換を守り続けられるか」だった。準備は足りるか、金は流出していないか、約束を果たせるか。その年、何が起きていたのか。日付の順に戻してみる。
1917年から1971年、七つの区切り
停止、復帰、再停止。公的な年表に並ぶ区切りを、国をまたいで一つの表にするとこうなる。
| 時期 | 国 | 出来事 |
|---|---|---|
| 1917年9月 | 日本 | 金輸出禁止。金本位制は事実上停止 |
| 1925年4月末 | 英国 | 金本位制に復帰 |
| 1930年1月11日 | 日本 | 金輸出解禁。金本位制に復帰 |
| 1931年9月 | 英国 | 金本位制から離脱 |
| 1931年12月 | 日本 | 金輸出再禁止 |
| 1932年1月 | 日本 | 金貨兌換停止に関する緊急勅令 |
| 1971年8月15日 | 米国 | ドルと金の交換停止 |
縦の並びが示すのは、廃止が一度の決定ではなかったこと。十五年ほどの間に、日本は停止・復帰・再停止を一巡し、英国は六年あまりの復帰期間を終えている。そして最後の行だけが、そこから四十年後のワシントンに置かれている。
1917年9月と1930年1月、東京の停止と復帰
日本銀行の沿革年表は、1917年(大正6年)9月に「金輸出禁止」と記す。金の輸出が止まれば、金の自由な移動を前提にした固定相場の仕組みは働かない。制度の名前は残っても、動く部分が止まる。日本銀行という中央銀行がどのような沿革をたどったかは、1882年の開業から1899年の紙幣統一までをたどった記事で日付を追っている。
解禁は1930年(昭和5年)1月11日。浜口雄幸内閣、大蔵大臣は井上準之助。国立国会図書館の日記資料の年表も、この日の「主なできごと」として金解禁を挙げている。十二年余りを経て、金は再び自由に出入りできるようになった。だが復帰から二年を待たず、制度は二度目の停止を迎える。
1931年、ロンドンの離脱と東京の再禁止
英国は1925年4月末に金本位制へ復帰していた。イングランド銀行の季刊報告は、英国が金本位制下にあった期間を「1925年4月末から1931年9月まで」として扱う。復帰の試みは続かず、1931年に英国は最終的に金本位制を離れた。英国債務管理庁が載せるイングランド銀行の沿革は、この離脱に続けて、金・外貨準備がイングランド銀行から財務省へ移されたことを書き添えている。
東京の動きは、その三か月後。1931年(昭和6年)12月、金輸出の再禁止。さらに翌1932年(昭和7年)1月には、金貨兌換停止に関する緊急勅令が出される。兌換の無制限保証という条件が外れ、通貨の発行量は金の準備から切り離された。事実上の管理通貨制度への移行である。年表の上では、二行。実務の上では、制度の土台の入れ替え。
1944年の約束と1971年8月15日
それで金と通貨の関係が完全に消えたわけではなかった。戦後のブレトン・ウッズ体制では、ドルと金の交換比率が1トロイオンス35ドルに固定されていた。
1971年8月13日から15日のキャンプ・デービッド会議を経て、8月15日、ニクソン大統領はテレビ演説でドルと金の交換停止を発表する。いわゆる金窓口の閉鎖。海外に積み上がったドルが米国の金保有量を上回り、金の取り付けが懸念されていた。ドルへの信認低下、国内のインフレ、国際収支の悪化。米連邦準備制度の歴史解説は、この発表に至った経緯と背景をそう記す。国際通貨基金の解説は、この閉鎖をもってブレトン・ウッズ体制が事実上崩れたと位置づける。
公的な年表に残る書き方
公的機関の年表や歴史解説を並べて気づくのは、記録の粒度が一様でないこと。日本銀行の年表は、金輸出禁止も再禁止も緊急勅令も、月までで記す。国会図書館の日記の年表は、金解禁を1月11日という日で押さえる。英国側の沿革は、離脱を一文で書き、その後ろに準備の移管という手続きを添える。午前中の図書館で縮刷版をめくる習慣は今も変わらないが、縮刷版の一面と、こうした年表の一行は、同じ出来事の別の切り口である。

粒度の違いは、決定の重さの違いではない。何を残すための記録か、という設計の違いである。月で足りる年表と、日で追う日記。制度の歴史を読むとき、自分がどちらの目で見ているかを分けておくと、同じ出来事が別の輪郭で立ち上がってくる。
廃止の理由、三つの読み方
一つ目は、平価の選び方として読む筋。英国の1925年の復帰は続かず、1931年9月に離脱。日本の1930年の解禁も二年を待たずに再禁止となった。英国は復帰から約六年後に離脱し、日本は復帰から二年を待たずに再禁止へ進んだ。
二つ目は、約束の裏付けとして読む筋。兌換の無制限保証は、準備がある限りで成り立つ約束である。1971年の米国では、海外に保有されたドルが自国の金保有量を上回った。約束の相手が増えすぎたとき、窓口は閉じる側の都合だけでは開けていられない。
三つ目は、体制の形として読む筋。先に触れた国際通貨基金の解説は、ベトナム戦争や国内政策を支えるための緩和的な金融・財政政策と、西独や日本といった黒字国が通貨の再評価に消極的だったことを並べて挙げる。どちらも自国の事情では説明がつく。説明がつくまま、固定された比率だけが保てなくなっていった。
1932年と、今の条件
1932年1月の緊急勅令より後、通貨の裏側にあるのは金ではなく、制度の運用である。今、銀行券を窓口に持って行っても、金何グラムとの交換が約束されているわけではない。固定相場でもなく、国際収支が金の移動で自動的に均されることもない。制度としての金本位制がどこまで残ったのかは、1931年の停止から1978年の協定改正までをたどった記事で年を追った。
残る問いは、たぶんこの形になる。1917年、1931年、1971年に外されたのは、金という裏付けだったのか、それとも「無制限に保証する」という約束の側だったのか。その問いは残る。
- 日本銀行「日本銀行の歴史」年表(1900年代以降)
- 国立国会図書館 憲政資料室「日記の世界」1930年タイムライン
- Bank of England Quarterly Bulletin 1970 Q1「Bank of England’s holdings of gold and foreign exchange 1924-31」
- UK Debt Management Office 掲載「Bank of England」沿革
- Federal Reserve History「Gold Convertibility Ends」
- IMF Blog「From the History Books: The Rethinking of the International Monetary System」
- コトバンク「金本位制度」