「ドル以外の主要通貨の秩序あるドルに対する増価が望ましい」。

1985年9月22日、先進5カ国の財務大臣と中央銀行総裁が発表した声明の一節である。回りくどい言い回しだが、向きははっきりしていた。ドルを下げる、という向きである。

バブル期、証券担当の記者として株価を追った。段ボール3箱に残る当時の取材ノートを読み返し、株高と地価高騰の話を遡っていくと、行き着く先の一つがこの声明の日付になる。

1985年9月、土曜日と日曜日のあいだ

記者時代、取材ノートの日付を取り違えて訂正を出したことがある。日付の話になると、その訂正を思い出す。プラザ合意の「いつ」も、曜日まで並べると景色が変わる。

1985年9月21日、土曜日。東京市場のドル円仲値は1ドル=241円70銭だった。声明が出たのは翌22日の日曜日、場所はニューヨーク。その前後で、何が起きていたのか。トウシル(楽天証券)の記事によれば、発表から1日のうちにドル円は235円前後から約20円円高に動き、1週間足らずで210円台まで下落が進んだ。

1985年9月22日、ニューヨークのG5声明

会議に集まったのは、フランス、西ドイツ、日本、英国、米国。声明の原文は、ドル以外の主要通貨の秩序ある増価が望ましいとしたうえで、これを促すため一層協力する用意があると記している。為替相場の向きについて、5カ国が声をそろえて公に語った。これが、のちにプラザ合意と呼ばれる取り決めである。

1985年末から1987年1月、円高の年表

その後の円高は、1年あまりで数十円単位に及んだ。トヨタ自動車75年史は、円相場の推移を次のように記している。

夕暮れの窓辺の机に置かれた地球儀と天秤で、通貨の釣り合いを表したイメージ
プラザ合意前後のドル円相場
時期 水準
合意前(1985年前半) 1ドル240円前後
1985年末 200円割れ
1986年5月 160円
1987年1月 150円割れ

200円割れまで、合意から3か月あまり。1987年1月には150円を割り込み、1ドルの価値は円で数えて大きく縮んだ。

1986年1月から1987年2月、公定歩合の引き下げ

急な円高で景気は悪化した。これに対応するため、日本銀行は公定歩合(現在の基準割引率)を段階的に引き下げていく。日本銀行の統計で日付を並べると、1986年1月30日に4.50%、3月10日に4.00%、4月21日に3.50%、11月1日に3.00%。1987年2月23日には2.50%となった。当時として史上最低の水準である。

公定歩合(基準割引率)の引き下げ 公定歩合(基準割引率)の引き下げ 単位:% 0 2 4 6 1986年1月30日 1986年3月10日 1986年4月21日 1986年11月1日 1987年2月23日 4.5 4 3.5 3 2.5

公定歩合(基準割引率)の引き下げ(単位:%)
項目 公定歩合
1986年1月30日 4.5
1986年3月10日 4
1986年4月21日 3.5
1986年11月1日 3
1987年2月23日 2.5
出典:基準割引率および基準貸付利率(旧公定歩合)の推移:日本銀行

1986年11月、景気の谷とバブルの芽

内閣府経済社会総合研究所の景気基準日付では、景気の谷は1986年11月、山は1991年2月。この拡張期が、のちにバブル景気と呼ばれる。1986年5月に円は160円をつけ、11月には公定歩合が3.00%に下がった。景気が谷をつけたのは、その同じ月である。

円高からバブルへの道筋には、重心の違う説明がある。野村證券の証券用語解説は、為替差損を避けようと海外へ向かっていた投資資金が国内の株式や不動産に流れ込み、資産価格の上昇と含み益の増大が金融機関の融資拡大を招いたと説く。ダイヤモンド・オンラインの記事は、ドルの下げ過ぎを警戒した日本銀行の利下げやドル買い介入といった円高対策が、その後のバブルにつながったと指摘する。

資金の流れを見るか、政策の選択を見るか。二つの説明は重なり合いながら、光を当てる場所が違う。景気が山を越えたあとの下り坂は、1990年の利上げと総量規制からバブル崩壊を読んだ記事でたどった。

1985年9月22日、一行の答えの先

いま「プラザ合意はいつ」と問えば、答えは一行で済む。1985年9月22日、日曜日。けれど、その日付に続く円高、利下げ、景気の谷は、それぞれ別の日付を持っている。

午前中の図書館で縮刷版をめくりながら、同じことを考えている。バブルの始まりを一つの日付で書くとしたら、声明が出た日曜日か、公定歩合が2.50%まで下がった日か、それとも景気が谷をつけた月か。読む人は、どの日付に印をつけるだろうか。