1973年の暮れに日本政府がとった方針を、一行ずつ書けばこうなる。石油の消費は一割から一割五分減らす。卸売物価は十二月の水準で凍結する。輸入に頼る国の経済が、急激な価格上昇に直面していた時期の決定である。

オイルショックはいつ起きたのか。答えは一つではない。1973年10月と、1978年から1979年。同じ名前で呼ばれる二つの出来事は、きっかけも規模も違っていた。

1973年末、供給不安と価格上昇

オイルショックという言葉は、価格の話として記憶されている。ただ1973年の暮れ、日本では、供給がどこまで減るかも問題になった。

当時の日本は石油の約99%を輸入し、そのうち約80%が中東産だった。政府は10〜15%の消費削減目標を設定し、卸売物価を1973年12月の水準で凍結する措置を1974年3月まで続けている(ENEOS 石油便覧「石油危機(オイルショック)と石油高価格の時代」)。価格凍結と消費削減が同時に打ち出されたことは、政府が価格と供給の双方を問題視していたことを示す。

記者だったころ、取材ノートの日付を取り違えて訂正を出したことがある。以来、年表を作るときは、出来事が起きた日と、数字が動いた日を別の行に書く癖がついた。石油危機は、その二つがはっきりずれる出来事である。

1973年10月、禁輸が始まる

第一次石油危機は、1973年10月の第四次中東戦争に端を発した。中東産油諸国が原油の生産削減に踏み切り、あわせて一部の非友好国に対して禁輸措置をとった。

きっかけの日付は、もう少し細かく残っている。1973年10月19日、ニクソン大統領がイスラエルへの22億ドルの緊急援助を要請したことを受け、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)が米国への禁輸を開始した。対象は米国に加えてオランダ、ポルトガル、南アフリカ。アラブ系OPEC加盟国は、米国による対イスラエル軍への再補給への報復と、停戦後の交渉で優位を確保することを理由に挙げていた。

第一次石油危機の年表(1973年10月〜1974年3月)
時期 出来事
1973年10月 第四次中東戦争。中東産油諸国が生産削減と一部非友好国への禁輸へ
1973年10月19日 OAPECが米国への禁輸を開始
1973年末〜1974年初 日本の卸売物価が異常に騰貴
1974年1月 原油価格が1バレル11.65ドル(禁輸前は2.90ドル)
1974年3月 禁輸が解除。生産削減も段階的に緩和

価格は禁輸前の1バレル2.90ドルから1974年1月の11.65ドルへ、ほぼ4倍になった(Federal Reserve History「Oil Shock of 1973-74」)。禁輸そのものは5か月で終わったが、価格の高さは残った。1973年10月19日は、米国への禁輸が始まった日である。第一次石油危機の始まりを広く捉えるなら、第四次中東戦争と生産削減・禁輸が重なった1973年10月となる。禁輸の終わりまでを見れば1974年3月まで、価格の水準が変わった期間として答えるなら、もっと長い。

1978年から1980年、二度目の供給減

二度目は、戦争ではなく革命から始まった。1978年初めから1979年初めにかけてのイラン革命により、1979年1月までにイランの原油生産は日量480万バレル減少した。世界生産の約7%に当たる量である。

価格の動きは、第一次ほどの上昇率ではなかったが、1979年から1980年にかけて上昇が続いた。1979年4月から1980年4月の一年で2倍以上。1979年半ばに1バレル13ドルだった原油は、1980年半ばに34ドルになっている。OPECの加重平均価格で見ると、1978年12月から1979年7月の上昇は60%超。第一次のとき、1972年末から1974年初めの上昇が約370%だったのと比べれば、桁が違う(内閣府「昭和54年 年次世界経済報告」)。

1973年度の卸売物価35.4%、1974年の消費者物価23.2%

日本側の原資料を開く。経済企画庁が1974年8月9日に公表した年次経済報告は、昭和48年度の卸売物価上昇率を35.4%と記録している。朝鮮動乱期以来の高騰。その内訳は、約4割が国内需給のひっ迫、約6割が原油などの海外要因とされた。1973年10月の石油危機で海外要因が再び増大し、1973年末から1974年初めに卸売物価が異常に騰貴したとも書かれている。

消費者物価指数の年平均前年比(1973・1974・1979・1980年) 消費者物価指数の年平均前年比(1973・1974・1979・1980年) 単位:% 0 10 20 30 1973年 1974年 1979年 1980年 11.7 23.2 3.7 7.7

消費者物価指数の年平均前年比(1973・1974・1979・1980年)(単位:%)
項目 前年比
1973年 11.7
1974年 23.2
1979年 3.7
1980年 7.7
出典:昭和49年 年次経済報告 成長経済を超えて 参考資料 10. 物価(経済企画庁)/昭和55年 年次世界経済報告 第1章 1980年の世界経済(内閣府)/長期経済統計 物価(内閣府)

消費者物価の年平均前年比は、1973年が11.7%、1974年が23.2%。消費者物価が大きく上がった一年である。同じ報告の参考資料は、消費者物価の年度間上昇率が二桁になったのは昭和30年代・40年代を通じて初めてだと記している。

二度目は、数字の形が違った。1979年の消費者物価上昇率は3.7%、1980年は7.7%。1980年4〜6月期の前年同期比は日本が8.3%で、OECD諸国の11.4%を下回る。石油輸入の増加額も、第一次のGDP比3.1%に対して1979年は1%だった。

供給が減ったのか、減ると思われたのか

ここから先は、同じ出来事に対する読み方が分かれる。一つは、供給量が減ったから価格が上がったという読み方。もう一つは、将来の供給途絶を恐れた買い手が在庫を積み増し、その予備的な需要が不足を広げたという読み方である。第二次について、実質的な純供給減は4〜5%程度で、パニック買いこそが価格上昇の主因だったと論じる分析もある(Brookings Institution、Samantha Gross、2019年3月5日)。

政策の側にも、二つの見方が残っている。当時有力だったのは、原油のようなコストプッシュ型のインフレは金融政策では扱いにくいという見方だった。後の研究は、引き締めれば景気が減速し、緩めれば物価が走るというトレードオフを指摘する。第二次の局面については、1978年の米国の利上げは臆病で不十分だったという史家の評価もある。

どちらに重みを置くかを決める前に、分けておきたいものがある。きっかけと、広がった理由。2008年9月15日の破産申請から世界へ広がった金融危機を読むときにも同じ線を引いたが、石油危機では、減った量と、減るかもしれないという予想が、その線の両側に立っている。

1973年の条件と1979年の条件

二つの石油危機を同じ尺度で並べると、見落とすものがある。1973年の日本は石油の約99%を輸入し、その約80%を中東に頼っていた。そうした輸入構造のもと、政府は供給と価格の双方を問題視し、消費削減目標と価格の凍結という直接的な手段をとった。1979年は供給が減った局面でも、石油輸入増加額のGDP比が1%にとどまり、第一次の3.1%の3分の1以下に収まっている。

価格が市場で動く経済と、卸売物価を行政が凍結する経済では、同じ上昇率の意味も変わる。1973年と1979年のあとに日本経済が通った道筋は、1985年9月22日のG5声明から円高・利下げへ向かった局面の年表に続いていく。当時の数字を、そのまま今の価格の予告として読むことはできない。

1973年10月と1979年1月、残る問い

オイルショックはいつ起きたのか。第一次を月で答えれば1973年10月。なかでも19日は米国への禁輸開始日である。第二次は、1979年1月までに積み上がった減産。期間で答えれば、1973年10月から1974年3月までの5か月。第二次では、1978年から1979年初めにかけて供給が減り、価格の上昇は1980年にかけて続いた。価格で答えれば、ほぼ4倍と、2倍以上。

それでも、二つの年表を並べてなお決まらないものが残る。価格を動かしたのは、実際に減った量だったのか、減るかもしれないという予想だったのか。1979年の局面については、後者に重みを置く分析がある。1973年の局面では、どちらだったのだろう。縮刷版の棚に戻って確かめたいことが、まだある。