見出しにするなら、数字は一つで足りたはずだ。「5%」。1973年10月17日、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)の加盟国が発表した減産幅である。基準は前月、9月の生産量。即時5%を削り、要求が満たされるまで毎月さらに5%ずつ削り続ける、と同じ日に表明されている。
外交文書に残っているのは、即時5%減産と毎月の追加削減を記した決定事項だ。この5%から始まった継続的な減産と禁輸、産油国による価格引き上げを経て、原油価格は数か月で約四倍の水準に達した。オイルショックの原因をたどる作業は、この数字がどこまで伸びたのかを追う作業でもある。
1973年10月6日、引き金が引かれた日
第四次中東戦争が始まったのは1973年10月6日。戦争そのものは、石油の話として始まったわけではない。ただ、戦況のなかでアメリカがイスラエル軍への軍事再補給に踏み切ったことが、アラブ産油国に禁輸を決断させる直接の引き金になったとされる。米国務省歴史部の記録は、禁輸の対象がアメリカだけでなく、イスラエルを支持したオランダ、ポルトガル、南アフリカにも広がったと記している。
向けられていたのは、戦争の帰趨そのものではなく、戦争をどの国が支えたか、という一点だった。
その時、何が起きていたのか。順番だけを並べれば、戦争が先、軍事支援の決定が次、禁輸と減産がその後。原因を一語で言い切りたくなる場面だが、この三つは同じ重さではない。
1973年10月17日、「5%」という削り方
禁輸は、蛇口を閉めて終わりという措置ではなかった。米国の外交文書集に残る記録によれば、10月17日に決まったのは9月の生産量からの即時5%減産と、要求が満たされるまで毎月さらに5%ずつという追加の削減である。期限ではなく条件で区切られていた。買い手の側は、来月いくら手に入るのかを計算できない。
5%という幅そのものは、在庫でしのげる範囲にも見える。追加削減が毎月続く設計であり、交渉が長引くほど供給量がさらに減る方針だった。
足りない量がどれだけかという数字だけでなく、どこで止まるのかが見えない状態が続いたことも、買い手の判断を難しくしたと考えられる。
1971年2月と1972年12月、禁輸の前にあったもの
引き金の話の前に、引き金が効く仕組みの話がいる。経済企画庁の世界経済白書(昭和55年版)は、1971年2月のテヘラン価格協定、1972年12月のリヤド事業参加協定を挙げ、この過程で産油国が国際石油メジャーの価格支配と生産支配を切り崩していったと整理している。資源ナショナリズムと呼ばれた流れ。
1973年の禁輸が効いたのは、値段と量を決める権限が、すでに買い手側の企業から産油国の側へ移りつつあったからだ。戦争が原因だとして、その戦争はなぜ石油を動かせたのか。答えの半分は、二年前と一年前にある。
1973年から1974年、二倍、そして四倍
禁輸と減産が始まってからの数か月で、原油価格はまず倍になり、その後、四倍の水準に達した。産油国が価格を引き上げる力を強めていたことも、価格上昇の重要な背景だった。
倍増と四倍は、ひと続きの滑らかな線ではない。段があり、段のたびに決定があった。価格と生産を決める力がメジャーズから産油国側へ移る変化が、この数か月に表れたことでもある。
四倍という倍率が、そのままの形で家計に届いたわけではない。輸入価格が国内の値札に変わるまでには、工程の数だけ段差がある。日本の政府がその年の暮れに動いたのは、ちょうどその段差のところだった。
1973年12月22日、公布された二本の法律
1973年12月22日、日本では二つの法律が同じ日に公布されている。法律第121号「国民生活安定緊急措置法」は、物価の高騰など経済の異常事態に対応して、生活関連物資の価格と需給を調整する緊急措置を定めたもの。法律第122号「石油需給適正化法」は、海外からの石油の大幅な供給不足に際し、供給の確保と使用の節減によって需給を適正化することを目的に掲げている。
番号が続いていることが、その日の性格を伝える。片方で物の値段を、もう片方で油そのものの配り方を扱う。二本立てになったということは、値段の問題と量の問題が、別々に手当てを要するほど大きくなっていたということだ。
1974年3月、禁輸の解除
アラブ産油国による禁輸が解除されたのは1974年3月。半年に満たない期間だった。ただ、解除は値段を元に戻す合図ではない。上がった価格の水準も、産油国が価格を決める側に立つという構図も、そのまま残った。石油危機そのものの時期については、オイルショックがいつ起きたのかを当時の資料で追った記事で別に整理している。
禁輸という手段が目的を達したかどうかの評価は、立場によって分かれる。ただ、解除の時点で元に戻らなかったものを数えるほうが、後から読むときには役に立つ。
原因を一つの名前で呼ばないこと
オイルショックの原因を一行で書くなら、「第四次中東戦争と、アラブ産油国による禁輸」になる。短く、事実としても外れていない。ただ、その一行からは、1971年と1972年の協定も、毎月5%という条件の立て方も落ちる。
犯人を一人に決める書き方は読みやすい。読みやすいぶん、後で使いにくい。引き金と、引き金が効いた条件は、別の棚に置いておいたほうがいい。原因をどこまで遡るかで責任の見え方が変わる例は、失われた30年を日付ごとに読み直した記事でも扱った。
1973年と今、重なる一つのところ
縮刷版を閉じて思うのは、条件のほとんどが違うということだ。為替も、調達先の数も、在庫の積み方も、五十年前とは別物になっている。それでも一つだけ重なる。あの秋、来月いくら届くのかを誰も言えない状態が続いたこと。見通しが立たないという条件は、量そのものとは別に、買い手の判断に影響したと考えられる。その一点は、今の市場でも形を変えずに残っている。