「『失われた30年』は自分のせいじゃないかと思う部分もあります」。経済産業政策局長の飯田祐二が、2023年5月15日に掲載されたインタビューでそう語っている。規制緩和などの政策が、期待したとおりの結果につながらなかったという振り返り。役職にある人物が、自分の側から責任に触れた発言である。
この一言は、問いの入口になる。ただし、答えにはならない。「誰のせい」という問いに一人の名前で答えを出そうとすると、手元に残る記録とかみ合わなくなる。残っているのは、別々の年に、別々の場所で下された判断の記録。三つの日付をたどる。
1990年代から2010年代初め、この記事が指す範囲
日本銀行はデフレの期間を1990年代から2010年代初めまでと整理している。本稿では「失われた30年」を、バブル崩壊後の1990年代から、デフレと低成長が続いた2010年代初め以降まで続いた長期停滞を指す言葉として用いる。
| 項目 | 年代平均 |
|---|---|
| 1980年代 | 4.3 |
| 1990年代 | 1.3 |
停滞の大きさは、一つの数字に表れる。実質経済成長率の年代平均は、1980年代の4.3%から1990年代の1.3%へ下がった。1990年代の平均は1980年代の約30の水準。一年あたりでは三ポイント前後の差だが、十年続けば、企業も家計も違う前提の上で判断することになる。ただし、この落差が示すのは停滞の規模であって、誰のどの判断がそれを招いたかを測る数値ではない。
1990年8月、公定歩合6.0%
一つめの日付。公定歩合は1989年5月の2.5%から、1990年8月の6.0%まで段階的に引き上げられた。一年三か月で3.5ポイント。
日本銀行金融研究所が2000年12月に公表した1980年代後半の経験を扱う論文は、この時期を金融緩和の長期化だけで説明していない。金融機関の行動、土地税制や規制、規律づけの弱さを複合要因として並べ、より早い段階で引き締めていれば信用の膨張も崩壊後の悪影響も小さくできた可能性を論じている。焦点にあるのは引き締めの是非ではなく、その時期である。
論文が並べる複数の要因は、どれか一つを主因として切り出す形になっていない。金融機関がどのように融資を広げたか、土地にかかる税制や規制がどう働いたか、取引の慣行を律する仕組みがどれだけ機能していたか。引き締めの時期だけを論じても、これらの条件を外して語ることはできない。
当時、証券担当として年末の高値を「通過点」と書いた原稿が残っている。日付を取り違えて訂正した取材ノートもある。いまも午前中は図書館で当時の新聞縮刷版を読み、夕方に原稿を書く。三十年以上前の「通過点」という字を読み返すたび、その判断の重さが浮かぶ。1989年末の最高値から1990年の総量規制までの経緯はバブル崩壊を当時の資料で読んだ記事に、緩和が続いていた時期の背景は1985年9月のG5声明から円高と利下げをたどった記事にまとめてある。
1997年、消費税5%と財政構造改革法
二つめ。1997年度には、消費税率の引上げと特別減税の不実施が重なった。前年まであった負担軽減が消える形である。同年11月、財政構造改革法が成立。歳出を絞る方向が、法律の形で据えられた年だった。
この判断を、二年後に政府自身が振り返っている。1999年の経済白書は、景気の頂点を1997年初めとし、バブル崩壊後の問題が未処理のまま残っていたと記した上で、その時期に進められた財政構造改革を「極めて時期の悪いもの」と評した。方向ではなく、タイミングへの評価。
運営は翌年に変わる。1998年4月24日、総事業費16兆円を超える総合経済対策が決定された。半年あまりで、絞る側から支える側へ。
1997年に起きた、もう二つのこと
その年、何が同時に起きていたのか。7月にアジア通貨危機、11月に金融システム不安。消費税率は3%から5%に上がったが、同じ年に外からの衝撃と金融の動揺が重なっている。
2011年5月30日に作成された政府会議の説明資料は、増税の影響だけを分離して測るのは困難だと説明し、引用した研究のマイナス所得効果の推計を0.3兆円(GDP比0.06%)と示している。増税は97〜98年の景気後退の主因とは考えにくいとの評価も、あわせて紹介されている。
一つの原因に絞る説明は読みやすい。だが、同じ年に三つの出来事が並んでいるとき、どれか一つを取り出して残りを切り落とす読み方を、記録の側は支えない。増税と二つの衝撃が同じ年に重なったとき、どの変化が家計の消費を控えさせたのかを、記録の側からきれいに分けることは難しい。一つの数字だけを取り出して語る誘惑は、この年についてとりわけ強い。
2002年10月、不良債権比率を半減させる目標
三つめ。内閣府は、不良債権が銀行の金融仲介機能を弱め、資源を生産性の低い分野に滞留させ、金融不安を通じて企業と消費者を慎重にさせた経路を整理している。97〜98年の貸し渋り、設備投資の抑制。崩壊で生じた損失が、処理されないまま経済の内側に残り続けた形である。

貸し渋りが続いた数年のあいだ、設備投資を控える判断は一つの企業だけのものではなかった。内閣府の整理は、不良債権処理の遅れが広い範囲の投資判断に影響したことを示している。数値目標が置かれるまでの時間は、処理の遅れがどれだけの範囲に及んだかを測る一つの目安でもある。
公的資金による資本増強が行われたのは1998年3月、規模は計1.8兆円。比率そのものに数値目標が置かれたのは、その四年半のちだった。2002年10月の金融再生プログラムは主要行の不良債権比率の半減を掲げ、2002年3月期の8.4%に対して2005年3月期は2.93%。内閣府は目標が達成されたと評価している。
最高値の年から数えれば、十五年を超える時間がここに入る。遅れの長さは、政策の向きとは別に記録へ残る。
三つの日付がつながるところ
1990年8月、1997年11月、2002年10月。政権も、担った役所も、扱っている問題も違う。並べて見えてくるのは、引き締めの時期、崩壊後の処理と金融の安定化、財政の判断、そしてデフレ下で需要を支える運営という、異なる時点の判断と遅れが積み重なった形である。三つの日付を通じ、異なる局面での判断と対応の遅れが重なったことが見える。
三つの出来事は、担当した省庁も、扱った対象も異なる。それでも日付を並べ直すと、判断から次の判断までに挟まる時間の長さが、そのまま記録として残っていることに気づく。
積み重なりの外側にも条件がある。日本銀行が2024年に公表した金融政策の多角的レビューは、1990年代後半以降の停滞について、資産価格の下落、成長期待の低下、金融危機、人口動態、慢性的な需要不足、賃金と物価が上がりにくい慣行など、複数の要因が関与したと整理している。金融機関や企業の行動、国際的な衝撃も作用した。責任は、一人の名前にも、一つの政策にも収まらない。
2026年の数字と、持ち帰れること一つ
いまの数字も並べておく。2026年9月8日公表の2026年4〜6月期・2次速報で、実質GDP成長率は前期比0.4%、実質GDPの実額は599.0兆円(2020暦年連鎖価格)。2026年10月7日公表の毎月勤労統計調査2026年8月分の速報では、現金給与総額の実質賃金が前年同月比1.5%増、指数は83.7(2020年平均=100)。どちらも現在の局面を示す値で、三十年の原因を説明するものではない。
この三十年から持ち帰れるものを一つだけ選ぶなら、問いの形だろう。「誰のせいか」と名前を探す問い方では、1990年8月の引き上げ幅、1997年11月の法律、2002年10月の目標設定という、時点ごとの判断と遅れが視界の外に出てしまう。手元に残るのは、いつ、どの判断が、どれだけ遅れたのかという問い。冒頭の一言も、その問いの入口に置かれている。